尿検査で5+!!!???
「ねえ、尿をみせてくれない?」隣の椅子に座っていた臨床検査技師の彼女が真顔で私に言ってきました。
私の尿にとても興味を持っているようで、「いいよ」と言って差し出すと、顕微鏡で「○○が見える・・、面白い!」その時の私は何が面白いかがわからなかったのですが、あとから聞くと、慢性糸球体腎炎の患者の尿にはいろいろな細胞が見えるようで「貴重な経験をさせてもらってありがとう」とまで言われました。
その彼女は、「あなたの尿蛋白は3+どころか、5+だよ!そのくらい、悪いんだからちゃんと診てもらいな」と言っていました。
1995年、35歳の私は当時、保健所に勤めていました。職場の健康診断で初めて尿蛋白3+で「要医療」になり、近医を受診したのでした。全く自覚症状もなかったのですが、膀胱炎を繰り返していた時期があったので、とうとう泌尿器に何か問題が起きたかな?というくらいの受け止め方でした。
たまたま、上司が医師だったこともあり、受診を強く勧められたから受診したものの、この状況で受診する人はどのくらいいるかな?とも思います。受診した病院で「慢性糸球体腎炎」と診断され、服薬・・・。
保健所で改めて血圧をはかったら、200近くあり、「え?いつのまに?」と思ったことを、今でも覚えています。仕事は管理栄養士。ちょうど、後輩を初めて迎えた時期で責任もあり、かつ、繁忙期で、更に家庭では2人の小学生の子育て真っ只中の母親。これまで大病したことがなかったので、診断されてもあまり実感はわかず、自覚症状もなかったので、薬は飲んでいましたが、途中で日々の仕事に追われる中、受診を中断してしまいました。
それから、約1年後、別の病院に行くことにし、月1回の検査のたびにクレアチニンが上昇していきました。医師からは、「おかしいな、こんなに急激に悪化するのは・・」と言われ、パルス療法も勧められましたが、人前で話すことが多かった私は、ムーンフェイスなどの副作用が嫌で断りました。
食事療法は、自分は食のプロだからなんとかなるだろうなと、甘くみていた自分もいました。元々減塩食であったので減塩は楽勝でしたが、低たんぱく食は、言うとやるのではちょっと違っていて、特に、低たんぱく米は口に合わず、甘ったるく脂っこい食事も苦手で、全体的にエネルギー不足になっていたと思います。検査値は月ごとにどんどん悪化していきました。
透析導入
5年後の2000年、私の身体はキッチンに立つのもしんどいくらい、足は象さんのように浮腫み、悲鳴をあげていました。入院したきっかけは、風邪です。「これからの腎生検は危険だからできないね。しばらく様子を見ていきましょう」と医師から説明がありました。入院した時に、一番心配したのは病気のことではなく、仕事のことでした。仕事が滞らないように、入院先から職場にあれこれと電話をしました。ただただ、後輩や上司に申し訳ないという思いが一杯でした。
しばらく入院していると、主治医から透析導入の説明がありました。透析という治療のことは知っていたので、自分はいつか透析になるな、という心構えはできていたように思います。腹膜透析か血液透析か?すぐ、血液透析と即答しました。なぜか?
知り合いの先輩が長年、腹膜透析をしていて、細菌感染を何度か起こし、かつ、61歳という若さで亡くなられていたからです。これは、腹膜透析の死亡率が高いということではなく、ほんの一例にすぎません。が、当時の私にはマイナスイメージでした。そして、家で腹膜透析をしている姿を子供たちが見たら、心配をかけると思ったからです。血液透析は週に3回、4時間、通院しなければならず、仕事をしながらだと、夜間透析になり帰宅が遅くなりますが、夫にも理解してもらい決めました。
腎移植については、「私は移植しない」と決めていたのと、当時は主治医からの説明はなかったのでスルーしていました。シャント造成術を受け、透析導入への準備も順調。そして、2000年6月28日、初めての血液透析開始。この日は私の二度目の人生のスタートです。
仕事復帰と透析通院生活
入院生活は約1か月。仕事への復帰にむけて、気持ちは前向きでしたが、思った以上に体力が落ちていて、通勤はしんどかったです。当時はヘルプマークの制度もなく、見た目はいたって普通ですから電車内でも座ることがままならない日が多かったです。ただ、職場には恵まれていたのでありがたかったです。
始めの1年間は早退(病欠)をして透析に。その後、2年目からは夜間透析ができるクリニックに変え、フルタイム勤務に戻りました。朝7時に家を出て、17時15分に職場を出て、透析クリニックに6時までに入り4時間。帰宅は夜11時頃の生活でした。子どもたちのことをあまり見てあげられなかったので、申し訳ないと思いました。
ただ、透析は、スタッフのみなさんがよくしてくださって、痛い時もありますが、ペンレステープを貼ると無痛の時も多く、4時間の間はテレビを見たり、自分の時間を楽しめるようになっていきました。
非透析日は比較的元気に過ごせて、だるさもあまり感じず、子供との時間や早朝の犬の散歩にも行って楽しむこともできていました。
食べたいものはなんでも食べていましたし、量さえ気をつければ我慢することもなく、減塩、カリウム、リン、水分の制限も比較的楽にできていました。
患者になった自分が見た風景
入院した時は、医師も看護師も比較的若い方が多い病院でしたが、やはり、看護師はシフトで朝と夕で交代のため、時々、申し送りがされていないなあと思うこともあり、スタッフが変わるたびに同じことを何回か繰り返し話すこともありました。そこは、なんとか申し送りを徹底してほしいかな、と思います。特に薬のこととか・・。
そして、泌尿器科は、透析の専門ではないので、治療についても伝わらないこともありました(鉄剤の投与等)。なので、主治医は「腎内の先生に確認するね」という場面も何度かありました。また、我慢もしていられないので、師長に同性看護を希望しました。
悶々とした気持ちは、何度も心を暗くしましたが、それでも私は医療従事者のはしくれなので、泣き言を言ってもいられず、そんな時はメモ帳に書きだしていました。
透析導入から10年経った頃、大きな手術を2回しました。二次性副甲状腺機能亢進症で副甲状腺の摘出手術と、腎細胞がんでの右腎摘出手術。二つとも大学病院でした。患者にとっては、食事が楽しみだし、特に私は職業柄、関心だらけ。しかし、同室のお隣の患者さんが献立表を手にしているのに、透析患者はもらえなかったり、選択食もなかったり、少し疎外感を覚えました。当時、ほとんどの病院では、患者には常食の献立表しか渡していないようでした。
それは、いろいろな背景があるのだと思いますが、患者は患者、同じですからね。
そして、透析の関係で、どうしても食事時間にタイミングよく食べられない日も多く、病室に戻ると、食事のトレイがポツンとおいてあって、一人で食べる時は、少し寂しかったです。
透析人生から見えてきたもの
人生はたった一度。今、この時もどんどん過去になっていきます。好きで病気になる人はいません。が、病気になったことでいろいろな経験をし、人に出会い、学ぶこともできました。
保健所にいた私は、22歳で就職した時から、たくさんの方に栄養指導をしてきましたが、ご年配の方から戦争の話を教えていただいたり、ご家族の話や病気の話など、多くのお話しから、貴重な経験をさせていただきました。が、若さゆえ、患者さんの気持ちが半分もわかっていなかったようにも思います。
そして、自分が患者になった今、更に患者さんの気持ちを垣間見ることができたことは、私にとっては大きな武器にもなりました。その経験から、今の透析患者さんが苦しんでいることや、透析に対するスティグマを払拭したいという思いが強く、ちょうどコロナのパンデミックの頃からSNSで発信するようになりました。
今年、2024年で透析25年目を迎えます。周りから「大変でしょ?食事制限もたくさんあるよね?」と言われることが多いですが、管理栄養士として言いたいことは、「食べていけないものはない!少しずつならなんでも食べられる」ということです。医師や管理栄養士からの指導の中で「○○は食べてはいけない」と言われている患者がいかに多いかということもわかりました。患者にとっては、医療者からの指導の中で使われる言葉は、なかなか正確に伝わりにくいことも改めて感じています。
私は、いま有難いことに、透析時間を楽しめることができ、そして、透析人生も悪くない、とも思えています。
(このような機会を与えていただき、ありがとうございました。)
管理栄養士もみじ
著者:南 恭子さんのプロフィール
福島県出身。1982年、女子栄養大学卒業。
管理栄養士。
結婚し子育てしながらでも働ける公務員を目指し、東京都某区に就職。
保健所管理栄養士として着任。子どもから高齢者まであらゆる世代を対象とする地域保健の第一線において、栄養相談や講習会などを通して、人々の食生活改善に尽力を注ぐ。
2000年IgA腎症にて透析導入。週3回4時間の夜間透析をしながら合わせて37年間常勤として勤務。
2019年退職。
退職後、1年間は調理師養成学校の非常勤講師として栄養学を担当していたが、コロナパンデミックにより退職。その後、SNSを通して、腎臓病患者向けの情報発信をスタート。X、Youtube、Instagram、tiktok、オープンチャット、そして現在は主にstand.fmで音声配信を継続中。
趣味は英語学習、映画鑑賞。