うつ病から回復までの軌跡(前編・後編)

著者:やなぎまち

目次

「うつ病から回復までの軌跡:前編」

「私のうつ病の始まり」

「あれ、ちょっと自分おかしいのかな・・・?」

最初に違和感を覚えたのは、希望する職場に入社してから2年くらいが経った頃でした。

その頃私は、夢だったゲーム会社に就職し、尊敬するディレクターのもと、認められたい一心で仕事に励む、ひとりの契約社員でした。

徐々に仕事にも慣れ、様々なプロジェクトに参加させてもらえるようになった自分に満足感を覚える反面、自分に任される仕事量や責任は、自身の器量を超えはじめていました。

しかしそのとき私は、自身の限界を見定めることができませんでした。

「もし自分の限界を認めたら、仕事を任せてもらえなくなってしまうかもしれない」

「そんなことしたら実力が足りないことを公言しているようなものじゃないか」

こんな考えが頭をよぎり、周囲に適切な助けを求めることができないでいました。

そのような日々が続き、やがて自身に任されるタスクを消化しきれなくなってきました。

残ってしまったタスクは、深夜や休日を使ってなんとかこなしていたものの、新しく積まれていくタスクは消化のスピードを遥かに上回っており、深夜残業や休日出勤は焼け石に水の状況になってしまいました。

なんとか目の前の問題を解決できないか、と頭を抱えていた頃、最初の違和感が現れます。

その日朝起きると、時刻は就業開始5分前まで迫っていました。

当時はコロナ禍で在宅勤務をしており、朝起きたらすぐ仕事、合間にご飯を食べて深夜まで仕事、起きたらまた仕事、という日々を繰り返していました。

しかしその日は、今までのように同じことを繰り返すことができなかったのです。

布団から起き上がり、机の上に置いてあるパソコンが目に入った瞬間、強い不安を感じました。

私はその不安によって、金縛りにあったかのようにしばらく動けなくなってしまいました。

どれくらい時間が経ったかはわからないですが、気が付くと朝のミーティングの時間でした。

私は怯む自分に喝を入れて、パソコンを起動させます。

モニター画面が表示されると、チャットツールに連絡を知らせる赤いマークと、連絡の件数を表す数字が表示されていました。

それをみた途端、私は憂鬱な気持ちになり、その時初めて「今日は仕事をしたくないな」と思いました。

なんだか胸の辺りがざわざわします。

しかし、プロジェクトには締め切りがあり、個人でそれを調整できるような環境ではありませんでした。

だから休むこともしませんでした。

その日はなんとか仕事ができましたが、同じように体調不良を感じる日は次第に増えていき、ベッドから出られずに朝のミーティングを欠席してしまう日もでてきました。

チームを管理する上司は私のことを気遣いつつ、産業医との面談をしてみてはどうかと提案しました。(実はこの上司に苦手意識があり、メンタルの不調にかなり影響を与えていたのですが、それはまた別の話)

結果、産業医と面談を行い、紹介してもらったメンタルクリニックに通院しつつ、仕事を続けることになりました。

メンタルクリニックでは、(当たり前ですが)5分程度の診察と薬を処方されるのみで、薬を飲みながら仕事をつづける日々に入ります。

そのとき私は、正直なところ「自分の心の問題は、薬だけで解決できるものじゃないだろうな」と思っていました。

メンタルの問題が日常生活に支障をきたすまで前景化したのは初めてのことでしたが、自分のメンタルのどこかに、バランスのとれない歪なところがあることを、ずっと昔から感じていたからです。

そこで私は、自分の「心の問題」に正面から取り組みたいと考え、通院していたクリニックで行われていた精神分析的心理療法(以下、長いので便宜上精神分析と記載させていただきます)を受けたいと主治医に申し出ました。

その日から約1年半、通院、精神分析、仕事、というサイクルを続けることになります。

精神分析は以前から興味があり、実際に受けてみて(1年半という短い期間ですが)人生にとってとても有益な時間を過ごせたと、いまでも思っています。しかし、そのときの自分の「現実の問題」、つまり労働環境やそれに対する自分の働きかけ、環境調整など、具体的な現実を変化させるまでには至りませんでした。

そんな最中、得てしてライフイベントというのは自分ではコントロールできないもので、高校時代から付き合いがあった恋人と結婚することになり、それに伴って引っ越しを行うことになりました。

今思えば、そのような大きな変化が最後の引き金となったのでしょう。ぎりぎりのところで耐えていた自分の身体はついに限界を迎えました。

「うつ病の診断、そして退職」

新居を探し、業務の間を縫って役所で諸々の手続きを行い、荷造りをして、新居に到着して……
新しい生活が始まる頃には、既に新しい生活を始めるための余力はなく、慣れない環境の中で疲労は溜まる一方になっていました。
状況的には疲れていて当然なので、自分の身体が疲れていても「それは自分の体力がないせいだ」と考えて無理を続けてしまい、ただゆっくりと普通の生活についていけなくなっていきました。

やがて遅刻気味だった朝のミーティングを頻繁に欠席するようになり、起きたら昼の12時を過ぎているようなこともざらになっていきます。
当然その間に会社から連絡があってもスルーしているため、会社からしたら安否不明であり、見過ごすこともできない状況になっていました。

ある日、嫁に起こされて時計を見ると、昼の14時を指していました。
起き抜けに聞いたのは「会社の人が来てるみたいなんだけど……」と気まずそうに告げる妻の声。
その状況になって初めて、自分でも「もう無理みたいだな」と思うに至りました。

自宅までわざわざ安否を確認しにきてくれた同僚は、起き抜けの私を責めるようなことはせず、体調のことを心配してくれていました。
これまで定期的に産業医とは面談を続けていましたが、この出来事を境に休職に入ることに合意し、2021年の8月、一旦療養に専念することになりました。

主治医からの診断書には、うつ病と記載されており、「休養を要する」とだけ付け加えられていました。
このときの自分は「数か月休んだら復帰しよう」くらいの認識で、むしろ「時間ができたから、いままでできなかったスキルアップのための学習をしなくちゃ」とまで思っていました。
そんな心持ちのせいもあってきちんと休むことができず、いま振り返ってみて、休むことにも知識と技術が必要なんだなと実感します。

自身の状況を俯瞰的に捉えて、症状を理解すること。そのうえでどのような対処を行うべきなのか。知りたいことは病院にいっても教えてもらえませんでした。(自分が聞かなかっただけかもしれませんが)
休職したばかりの私は、とりあえず泥のように眠りました。
慢性的な睡眠不足だったこともあって、一日に20時間くらい寝ている日もありました。
寝たいだけ眠れる。そのことに喜びを感じている部分もあり、眠気を感じるときはとりあえず寝て、結果的に体内時計はめちゃくちゃになってしまいました。

そして目が醒めているときは、散らかった仕事のデータを整理したり、企画書を作ったり、積んでいた本を消化したり。
休職に入ったものの、エンジンはかかりっぱなしという感じです。そしてしばらく寝て、すると疲れはとれた感じがして、何かし始めて、また疲れて……そんなことを繰り返していた気がします。

数か月経っても状況は変わらず、あっという間に年末を迎えました。
そのくらい時期になって「復職できなかったらどうしよう」という不安を覚えました。
当時自分は契約社員として勤めており、契約の更新は1年単位でした。年度末の3月には契約更新の面談もあります。
「そろそろ職場に復帰して、元通りに仕事ができるようにしなければ、契約を更新することは恐らくできない。」
そのような不安が、自分を焦らせました。

結果的に休職の期間中に本当にやるべきだったこと=休んで症状を改善することはできず、春を迎えてしまいました。
当然会社と契約を更新することはできず、このときになって初めて「もう全部諦めて休むしかない」という気持ちになりました。
退職する前に上司から「元気になったら連絡して、また一緒に仕事しよう」と言ってもらえたことが、そのときに残された少しの希望でした。

「うつの沼へと沈んでいく療養期間」

そこから約1年半の間は、傷病手当金を受け取りながらの生活になりました。
週に一度の通院を除くと、とくに外出する用事もなく、急に世界が小さくなった感じがしました。
僕と、妻と、飼っている猫。2人と1匹だけの世界。
地平線の果てまで道は続いて見えるけれど、徒歩圏内で完結するその世界では、圏外にあるもの全てが空白地帯になってしまって、自分とは関係のないものになっていくような感覚を覚えました。

そこには独特な心地よさがあって、断絶された世界を繋ぎ直すような努力は無意味であるような気さえしました。
なんのひっかかりも起きない日常は、時間だけが一瞬で過ぎ去っていきます。
やることもなくて、目的もなくて、だらだらと過ごすことにストレスを感じる人もいるかもしれませんが、どうやら僕は正反対の人間らしく、一週間、一ヶ月、三ヶ月、半年、刻々と経過していくなんの変哲もない日常は凪いだ海のように穏やかでした。

穏やかな日常は、社会に復帰する意欲を少しずつ減退させていきます。
しかし、この完結した世界がいずれ終わりを迎えることも理解していました。
だから、タイムリミットを迎えるまでにできることを考えなければなりません。
社会に復帰する気持ちがほとんどなくなっていた自分に残された道は、障害年金を受給するか、生活保護を受給すること。この二つくらいしか思い浮かびませんでした。

まずは主治医に障害年金を申請できないか相談しました。
僕の期待とは裏腹に、医師は難色を示しました。
申請しても通ることはないだろうという見立てを説明されて、それ以上話が進むことはありませんでした。

次に生活保護を検討しました。
区役所へ向かい、受付で担当課の場所を聞いて窓口へ向かいました。
事情を説明すると、簡素な仕切りで区切られた相談室へ案内され、職員の方とお話することができました。
制度的な説明を一通り聞いたところ、貯金がある状態では生活保護の申請を検討することができないということがわかりました。貯金が10万円以上ある状態では生活保護の申請はできないと。
支給される金額も地域によって決まっており、今住んでいる家の家賃は支給額の規定を超えているため、引っ越すことも必要であることがわかりました。

結果的にこれらの行動では、将来に見通しを立てることはできませんでした。

もう退職してから半年が過ぎようとしていました。
その頃には生きる意欲もだいぶ減退し、うすぼんやりと「もう死んでもいいのかな」という感覚も芽生えていました。

春に退職し、夏、秋、と季節が過ぎ、いろいろなことを考えてはいたのですが、将来の見通しもつかず、なにをしたらいいのかもわからず、自分の病気の正体もわからず、そのときの自分にはもう何もわかりませんでした。
季節が冬に差し掛かる頃、家族会議をすることになりました。
家族会議、といっても、妻とふたりでの話し合いです。
「このままでいることはできない」ということは、ふたりとも理解していました。だからどうするか。
それぞれお互いの想いを言葉にしようとしますが、それもうまくいきませんでした。
ふたりとも現実的な解決策を見つけることができず、やがて沈黙が訪れました。
妻は泣いていました。

そのときに彼女が出した答えは、僕と猫を殺して、最後に自殺することでした。
最後まで僕が悲しまないように、自分が全て背負って終わらせるしかないと。
そう答えた妻はもう泣いていませんでした。
覚悟と絶望が伝わる言葉でした。

妻はおっとりした人で、臆病なところもあるけれど心根の優しい人でした。正直ちょっと頼りないなと感じることも多かった。
しかしそのときの妻の覚悟には、迫力というか、凄みがありました。
僕は妻の佇まいに、人間としての強さを感じました。
そしてなぜか、妻の強さに励まされたような気がしました。
同時に、大切な人を深く絶望させてしまったことを後悔しました。

その日の会話が、僕の気持ちにふたつの変化を与えました。
ひとつは、ここが終点だという感覚。
そして、ここからもう一度やり直そうという意識が生まれました。

「うつ病から回復までの軌跡:後半」

「もう一度、顔を上げて前をみる」

前編のあらすじ

過重労働からうつ病になってしまった私。
診断を受けて休職が始まるも、体調は改善することなく、会社との契約が終了してしまい退職。
やることのない日々に少しずつ生きる気力は削がれていき、妻と最終的な話し合いへ。
妻との話し合いをきっかけに、もう一度前を向いて生きなおそうとする後編です。

その日の話し合いの後、僕は妻に謝り、もう一度ふたりでやり直そうと伝えました。
そして、ふたりで生活を見直していきました。

当時は都内に住んでおり、猫を飼っていたため、家賃が割高でした。
もっとも基本的な固定費である家賃を安くすることはできないか、検討を始めました。
一身上の都合で、お互いに実家を頼りにすることができないため、家賃が安く、東京でも仕事を探せる郊外に引っ越し先を探すことになります。

とはいっても、正直引っ越しをするのは(労力的な意味で)苦痛だったので、やるなら引っ越したあとに、ふたりとも喜べる条件の部屋を探そうと思いました。

不動産屋サイトと何日も睨めっこして、やっと2つの物件を見つけることができました。
実際に契約する段階で、夫婦ともに無職であったりして、色々問題があったのですが、不動産屋さんも協力してくれてなんとか無事に引っ越し先を決めることができました。

そして年明けと同時に引っ越しを行い、縁もゆかりもない土地にやってきました。
不安もありましたが、妻が(たぶん無理をして)気丈に振る舞ってくれたおかげで、それに支えられて少しずつ物事が前に進んでいきました。

次は、どうやって体調を整え、仕事ができる状態まで身体を回復させるかという課題に取り組む必要がありました。
このとき、以前の主治医が「就労移行支援というサービスがあるから、検討してみたらどうか」という提案をしてくれたことを思い出しました。

自宅から通える場所で事業所を探したところ、いくつかの候補が見つかりました。
まずは、都道府県が設置している障害者センターなどが運営している事業所。職場訓練などを重視しているようでした。
つぎに、民間法人団体が運営しているタイプの事業所。これは場所によって特色がかなり異なるようでした。
最後に、病院が運営しているタイプの事業所。これも病院によってプログラムは様々だと思いますが、他の候補と異なるのは、心の治療を視野に入れたプログラムとなっていることです。
僕は「この機会に自分の特性を見直したい」と考えていたため、病院が運営しているタイプの事業所を見学することにしました。

実際に足を運んでみると、1階にクリニック、2階にリワーク室があり、リワーク室は最大で20人程度の人が机を並べて座ることができる程度の広さがありました。
まだ開設されてから半年ばかりの事業所らしく、IKEAなどの家具で作られた空間には清潔感があり、居心地のよさを感じました。
常勤の職員さんは5人程。全員が公認心理士、もしくは臨床心理士の資格を持っていて、それに加えてプログラム毎に専門の講師の方がいらっしゃる、という体制のようでした。

一週間のプログラムは、「マイナビゲーションブック制作」「メタ認知トレーニング」「アサーショントレーニング」「SST」「ワーキングメモリトレーニング」「アートセラピー」「ヨガ/マインドフルネス」などで構成されており、職場復帰とともに、心理的な治療も目指している内容であることが伺えました。
ここでなら自分の特性を理解するための勉強ができそうだな、と感じてその場で通所することを決めました。

通所を始めたのはその年の春頃でした。
最初は朝起きるのが辛かったり、帰ってきたら疲れてうたた寝してしまったり、という感じの毎日。
しかし生活の中で○○しなければならない、という縛りが生まれたことで、生活のリズムを取り戻していくことができました。
この年は、引っ越し、転院、リワークの通所など、年明けから変化してきた生活に少しずつ時間をかけて適応していきました。

夏頃から、週5日間リワークに通うようになり、プログラムの全体を体験することで、より治癒的な効果が現れ始めました。
変化していく最中では気付かなかったことですが、今振り返ってみて、この就労移行で経験したことは、かけがえのないものだったことを実感しています。

そこで得たものは、自分の心が持つレジリエンス(使い方が正しいかわかりませんが)を活発化させ、生きるための力を蘇らせてくれたように感じました。

この機会に、改めてそのような幸運が与えられたきっかけはなんだったのかを考えてみます。
少し長い説明になりますが、自分なりに「リワークプログラムからうつ病を回復させる効果がなぜ得られたのか」分析してみようと思います。

「うつ病から回復した要因について」

リワーキングプログラムに参加することで、どのようにしてうつ病が回復したのか考えてみると、大きくわけて三つの要素が見えてきました。

  • 自身が持っている特性の理解が進んだこと。
  • 人と人との繋がりを通した信頼関係が築けたこと。
  • 人生を振り返って大切にしたい価値を再発見したこと。

それぞれの要因について、具体的な例として自分の体験したことを書いてみようと思います。

①「自身が持っている特性の理解が進んだこと」について。
リワークの中では、職員の心理士さんといつでもミーティングができる環境がありました。
プログラムは朝の9時から16時までで組まれているのですが、お昼休憩の時間や、プログラム終了後に、希望があれば(かつ職員さんのスケジュールが空いていれば)いつでも相談室を開けてくれて、一対一で相談に乗ってくれるサポート体制が用意されていました。
このサポートによって、プログラムの中で気づいたことを報告したり、様々な悩みついて打ち明けたりして、自分についての理解を深めることができます。

さらに自分にとって重要だったのは、心理検査の一環として実施された「ハンドテスト」でした。

このハンドテストは、僕以外の利用者にも非常に好評だったのですが、その結果は、自分の意識に昇ってくることができない不安や、自身の行動を無意識的に規定してしまうような不安を的確に言語化してくれていました。
ハンドテストというものが専門的にどのくらい信憑性をもって現場に用いられているのかはわかりません。実際にハンドテストを行った心理士の方にも聞いてみました。彼女の解答はハッキリと白黒つけるような言い方を避け、「まぁハンドテストの結果というのは示唆みたいなものだからね」といっていました。

信憑性の話はさておき、ハンドテストの結果の中でとくに私の注意を引いた記述がふたつありました。

①<ご自身にとって「物事が思い通りにいかず悔しい思いをする」ことに対してとても不安や恐怖を感じており、これを生じさせないために「しっかりとした」「きちんとした」より高い目標やより良い成果をもとめることに繋がり、実際の作業や行動が上手くいかないことが起きてしまうのかもしれません>

②<他者のことを気にし過ぎてしまう(他者からの期待にきちんと応えられているか、自分は上手くやれていると他者に認識されているか、一目置かれ認められているか)ことには注意が必要でしょう。ご自身の場合には、他者の目を気にしすぎることは、作業や行動などのパフォーマンスの困難さにつながる可能性が高いと思われます。>

上記のふたつは、その文面を読んだときに身体的な反応(胸に矢が突き刺さるような感覚)を感じるくらいリアルに衝撃を覚えました。まさに自分では言葉にできなかった内面の不安が言語化されていると思いました。

上記の私の内面に潜んでいた不安について、不思議に思うことがあります。
それは、自分にとって凄く重要で向き合わなければならないことだと、文面を見るたびに思うのですが、しばらくすると何が書いてあったかを明確に思い出すことが困難になる現象に見舞われるのです。
その度、テストの用紙を取り出して何度も見直すのですが、その内容を忘れ、そしてまた思い出そうする一連の繰り返しに対して、僕は自分の心にある機制を感じざるを得ません。

そして、前職を退職するまで受けていた精神分析的心理療法のことも繋がってきます。
そのセラピーは経済的な理由で打ち切られる形で終わってしまいましたが、いくつかの断片が再び結びつき、さらにその先に続いていくような予感を感じています。
いつか、また精神分析の旅を再開したいものです。

話がそれました。
ともかく、そのハンドテストの結果をきっかけにして、自身の不安の所在を知ることができ、向き合い方を考えることで少しずつ対処の方法を身につけていこうと思いました。

リワークのプログラムでは、その他にも様々な学びがあり、それらを通して自己に対する理解がより一段深まったように思います。
そして理解が深まるにつれて、精神を病んだ自分を客体化することが可能になり、客体化するということはそれを観察している自分(別の主体)が現れてくるということでもあり、一種のマインドフルな心境へ自分を変化させるきっかけにもなりました。
これらの変化によって、病んだ自分に対して適切な距離をとり、日常生活を取り戻す足がかりができたのではないかと思います。

次にいきます。

②「人と人との繋がりを通した信頼関係が築けたこと」について
この言葉の額面だけを見たら、ただのありふれた、よくあるセリフにしか感じられません。
なので、自分の言葉でその経験を定義してみたいと思います。
少々長くなりますが、お付き合いいただけますと幸いです。

まずはじめに、気づいたことがありました。
それは、人間という生き物は2つの言語を使い分けて日常生活を送っているということでした。
ひとつは建前という言語。もう一つは本音という言語です。
どういうことでしょうか。

僕が感じたことは、そのふたつは混ざり合う部分がありながらも、根本的には別々のルールによって成り立っており、例えるなら言語という素材を使用してつくられた別々の建築物だということです。
そのことを表現するために、ここでは試しに建前と本音という二つの異なった言語体系があると仮定してみます。

ちょっと迂遠な言い回しになってしまいました。ひとつずつ具体的に考えてみようと思います。
建前は、社会を円滑に運営するために必要な言語の体系です。
もうちょっと踏み込んでみます。契約を前提とした関係で集まった人々(会社というものが一番想像しやすいと思います)をとりまとめ、その集まりが破綻しないように維持するのが、建前という言語の役割になります。
建前には、その集団のメンバー同士で適切な距離感を保ち、相手のプライベートに踏み込みすぎないようにする働きがあります。実際に社会の中で起きるトラブルの多くは、建前を不用意に乗り越えてしまうことがきっかけとなって発生するものではないでしょうか。

反対に本音という言語体系について。
本音は本当の自分を他者に伝えるために必要となる言語の体系です。
本音を話さなければ、人と人の間に心理的な信頼が生じることもないし、信頼のない繋がりというものはひとときのあいだにほどけて切れてしまうものです。
しかしリスクもあります。本音の使い方を間違えればほぼ間違いなくトラブルが起こります。
例えば血のつながりという最初からある絆に寄りかかり、それを(意識的にせよ無意識的にせよ)悪用することは家庭内暴力や虐待に繋がってしまうことは容易に想像ができます。

これら二つの言語体系から僕たちの生活を俯瞰してみると、会社や学校では「建前」という体系に則ってトラブルが起こらないように意識して過ごし、家に帰ると押さえつけられていた「本音」という体系が吹き出してしまいトラブルが起こる。それにうんざりした結果、家族間でも本音を持ち出すことは難しくなり、みんな希薄な繋がりの中で本当の自分自身を見失いかけている、といったら言い過ぎでしょうか。

もちろん会社や学校のなかでも本音が漏れてしまうタイミングはあります。そうでなければ友達もできないし、仲間意識も生まれません。
しかし前述したとおり、本音は諸刃の剣であり、絆を生むきっかけにもなりえるし、トラブルのもとにもなり得ます。その本音をきっかけにして友達になれればハッピーですが、本音がきっかけとなっていじめの対象になることだってあるでしょう。

そのような綱渡りを行いながら、建前と本音を切り替えて僕たちは生活しています。
人と人とが信頼関係によって繋がり、絆を生み出すには、①建前という空間に適応することができ②その中で適切なタイミングで本音を吐き出し③それが偶然良い方向に効果を発揮する、という条件があり、とくに最後は運要素なのでコントロールはできません。一種の賭けが必要になります。

そして人が人間関係で苦しむとき、そこで起こっていることは、建前と本音のバランス崩壊なのかもしれません。

前置きの話しが長くなりましたがこのような仮定をもって、私の体験について話してみます。
僕が参加したリワークのプログラムは、この建前と本音という言語のバランスを50対50の絶妙なバランスに保つ環境が形成されていました。
つまり建前としての距離感を保ちながら、自分の本音も相手に伝えることができ、それを承認してもらうことで自分に対する肯定感を養うことに繋がり、お互いが承認を交換しあうなかで、人間関係における信頼という感覚をとりもどすことができたのです。

これは自分にとってとても大きな経験でした。
人と繋がる感覚を取り戻したことで、自分が再び社会に参加し、その中で個性を活かし誰かの役に立つことで感謝される、そのサイクルの中で価値を生み出して生活を安定させる。そのような当たり前のビジョンをもう一度受け入れることができるようになりました。

余談ですが、なぜ建前と本音を適切なバランスで保つことができたかについても考えてみました。
前提として、そこに集まった人達がいい人だった、という身も蓋もないただの幸運もあります。でもそれ以外の要素もちゃんとあると思います。

まず、心理士のスタッフさんと利用者が壁のない部屋の中で、常にお互いが目に見えるところにいるという空間設計。加えて利用者が監視されていると感じないようなインテリアの工夫(照明や音楽、壁や床の色、日当たりまで関係していると思う)がなされていること。

次に当たり前ですが、適切な運営ルールを設けること。それは破ると罰が与えられるような利用者のプレッシャーになるような規則ではなく、基本的な建前(みんなが守ることでみんなの利益になると認識できるルール)として柔軟に運用すること。

最後にグループワーク。これは自分が参加した事業所の特色だと思いますが、認知行動療法やその他セラピーのエッセンスを交えたワークをグループで毎日行っていた、というものがあります。

それぞれ曜日によって様々なプログラムが用意されていることは前述のとおりですが、それらは毎回メンバー同士がランダムな班となってグループ単位で行われるのが基本でした。
このグループワークを行う際、どうしても(もしくは不意に)建前を乗り越えなければならないタイミングが発生します。なぜなら自分の病気に関することが話題の中に入り込んでしまうからです。

このときに自分の悩み、苦しみ、他の人に気軽には言えないような内容の話をメンバー同士で共有することになります。もちろんそのときは、言い方を工夫します。それでも言いすぎて失敗したな、恥ずかしかったな、と思うこともあります。
でもそのような発言に対しても、グループのメンバーが理解して受け止めてくれたとき、そこに信頼関係の芽生えを感じるのです。

このようなグループワークを数か月の間、人によっては毎日顔を合わせて行っていくわけです。もし、そこで信頼関係の構築に成功したら、それはとても大きな財産になります。というか自分はなりました。
このような環境をつくるために努力している心理士さん達を僕は尊敬します。

話しが長くなっていますが、最後の要因は「人生の軌跡を振り返り、大切にしたい価値を再発見したこと」です。

これは上記のリワークで行われているキャリアコンストラクションというプログラムのなかで得た経験です。(こうやって振り返ってみると、自分に合った就労移行支援事業所を見つけられたことは本当に幸運でした。)

当時私が参加していたプログラムでは、サビカス(Savickas,M.L.)のキャリア理論を中心に座学を行いながら、理論のエッセンスを取り入れたグループワーク(班になってお互いの価値観についてインタビューするなど)を行っていました。
これらのワークを通じて、私は自分の人生のポイントを再点検していきました。

まず幼少期の体験、次に自分で進路を決めた高校入学の体験、そして学校を卒業したあと3.11の震災を経験し、その社会の動きの中で自身の進路を再検討することになったときのこと、それから芸術について学びなおし自己研鑽を続けた日々、最終的にシナリオライターとなり、目指していたクリエーターという職業に就いてどのような景色を見たのか。

ワークのなかで見つけた自分の大切にしたい価値とは、「自分の心も、他人の心も大切にできる生き方がしたい」というものでした。
そして自分がクリエーターとして仕事をしていたとき、このような価値を叶えられる感じは全然しなかったな、ということに気づきます。
突き詰めて考えると、クリエーターは人の心よりも作品のことを優先しなければならないからです。(それが現時点の自分の答えです)
そして、自分が大切にしたい価値を実現できる生き方を探していく、という新しい目的が生まれました。

というわけで、これまでに振り返った3つの要因(自己の特性の理解、他者との信頼の構築、新しい目的の発見)を起点にして、自分は社会復帰のために踏み出そうという決意をすることができました。
この頃には、うつ病の症状がでることは殆どなくなり、医師からも寛解の状態にあると考えていいだろうと言われるまでになっていました。

今回、学生心理勉強会のホームページがリニューアルされるにあたって、荻野さんから依頼を受けてコラムを書かせていただきました。
あらためて自分の経験を振り返ってみると、長かったな、よく頑張ったな、と少し自分を褒めてあげてもいいような気持ちになりました。
現在はうつ病の症状は殆どでなくなったものの、天候に体調を左右されたり、自分の心の中にある歪んだ部分が原因となって、不安や恐怖が浮かび上がってくることもあります。まだまだこれから向き合って解決していかなければならない問題があるようです。
そして、現実的な問題はもっと深刻です。
うつ病の症状も緩和したため、仕事を探そうとしているのですが、これがなかなか見つからない。
キャリアに対して2年近いブランクがあること、そしてその原因がうつ病だったことなどオープンにして仕事を探すのはすごく難しい。
最終的に就労継続支援A型事業所で働き始めることになりましたが、その手取りだけでは生活費は賄えません。
そのため、障害者年金など他の福祉も利用することを検討していますが、それも通るのかわかりません。不安でいっぱいです。

とはいえ、将来についてはある程度楽観視しています。
こうして縁を頂いてコラムを書かせていただいていることもそうですし、長期的に自分のやりたいことの実現に向けて頑張っていこうと思います。

もし、また機会をいただければ、こちらのコラムで自分の考えていることや感じたことを投稿し、学生心理勉強会のみなさまと共有して、当事者と心理士の距離を縮め、共に心についての理解を深めていく場を築いていければ、と思っています。

それでは、今回のコラムはこのあたりで終わりになります。
長い文章を読んでくださって、ありがとうございました。

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